HIKARU (Bass)
TOKYO DARK CASTLEのオーガナイザーであり、日本のダークシーンを常に牽引し続けるGENETがフロントマンとして活動を続けるダークシーンの中心的バンド。
フロントのGENETは1978年日本のパンクムーブメントのきっかけを創る事となった東京ロッカーズにWORST NOISE、MARIA023などのバンドで十代最年少ヴォーカリストとして参加。 当時まだ誰もすることの無かったメークとノンセクシャルな容貌で注目を集め、剃刀でギターを弾き血まみれになるなどの破滅的パフォーマンスとその強烈な個性で一躍時代の寵児としてロックシーンに躍り出た。
その後GENETは1979年秋から1980年中期までロンドンに帯在し、Bauhausに多大な影響を受け帰国。 帰国後直ぐにラディカルな主張と表現行為としてのロックを追求するバンドAUTO-MODを結成。 その耽美的、演劇的表現行為は当時ゴシックと言うジャンルのないシーンに大いなる動揺と興奮を与える。
AUTO-MODは自らの解散を最終目的とした13回限定のシリーズ・ギグ「時の葬列」を主催。 当時イギリスで起こりつつあったVirgin Prunes、Alien Sex Fiend、Sex Gang Childrenなどのダークウェーブシーンと連動し、 ポジティブパンクと呼ばれる日本におけるゴス、インダストリアルシーンの先駆けを創り出す。 そしてこのイベントよりSADIE SADS、G-SCHMITT、MADAME EDWARDA他数々のポジティブパンクバンドを生み出す事となった。 このポジティブパンクシーンは一大ブームを巻き起こし、白塗りファッションの少年少女が日本全国に現れた!
又この時期寺山修司に傾倒していたGENETは、天井桟敷の福士恵二と共に自らの劇団バジワークシアターを作り演劇活動も活発に行なった。
AUTO-MODはそのポップな音楽性と実験音楽と言う相反する二面性を同時に一つのアルバム、 ステージに於いて演劇的手法と共に展開するという独自の音楽観を持ち、その高度な音楽性は、ミュージシャン集団としても特質したものであった。
メンバーにはBOOWYの布袋寅康、高橋まこと、PERSONZの渡辺貢、REBECCAの友森昭一、矢沢永吉のセッションに参加する河野利昭、現在プロデューサー、 DJとして活躍する朝元博文などを輩出。その音楽性が単なるダークシーンの産物ではなく日本の音楽シーンのフロンティアであったことを証明している。
1984年にはメジャー・デビューを果たし、AUTO-MODがその後の日本のロックシーンに与えた影響はまさに計り知れないものとなった。
しかし、そのAUTO-MODも1985年11月3日に後楽園ホールにて「時の葬列最終夜」を迎え解散。 当時としては驚異的な3000人の観客を集め繰り広げられた壮大なパフォーマンスに彩られた解散劇は今でも伝説として語り継がれている。 そしてあれだけ大きな動きとなっていたジャパニーズダークシーンは牽引力をなくしたように、このAUTO-MODの解散と共に消滅する事となる。
その後、役者など様々な活動を続けたGENETは、1997年二十世紀最後を迎えAUTO-MODを復活。 復活したAUTO-MODの音楽は以前とは全く違った、インダストリアルな暗黒ヘビーロックの道を辿り始めていった。
そして、GENETはクラブにおけるアンダーグラウンドイベントの可能性を目指し2000年にTOKYO GOTH & DARKWAVEを立ち上げる。 AUTO-MODが再びダークシーンに甦った事により、それまで動きを見せなかった東京のダークシーンは再び大きく動き出す。 2003年にはTOKYO GOTH & DARKWAVEはTOKYO DARK CASTLEと名を変え、GENETのプロデュースの下、東京のダークシーンの中心として今に至っている。 もともとAUTO-MODの世界観は見世物小屋、グランギニョルの世界であり、その虚構の劇場によって観る者をカオスへと引きずり込むことにあった。 今、AUTO-MODがばら撒いた奇矯な花の種子が東京中に花咲こうとしている。 其処では、演ずる事の出来なかった演目を探す一夜限りの舞踏会で漆黒の旋律が奏でられる。 今後もAUTO-MODはアンダーグランドの中心でダークシーンの牽引力として動き続ける。